増田先生から配布して頂いた、論文を読む。ので、前回の続き。

そこでは、マス、サブ、ポピュラー・カルチャーの語義が、それに伴う批評と共に手際よくまとめられていた。曰く、マスにはアドルノを筆頭とするフランクフルト学派の批判が注がれ、それに次いでサブにはバーミンガム学派(?)による擁護的な分析が為されている。前者の批判にあっては、その内容(低俗さ)における価値の棄却というよりも、それを支える形式面(資本)に焦点を当てたものであった。これがマス=大衆の受動性、被操作性を前提としていたのに対し、後者では、その大衆の能動性に焦点が当てられ、その日常世界との密着した関係、取捨選択性などが取り沙汰される。単純に割り切れるわけでもなく、両者歩み寄る傾向もあるが、今になってみれば、悲観的な前者と楽観的な後者に袂を分かつ印象も受ける。(自認されていたが、特にパンク・カルチャーなどは、安易に神話化されやすい)
さて、この二項対立を脱構築すべく颯爽と現れるのが、ポピュラーカルチャー−カルスタの組み合わせである。上の両者にまたがる形で複合的な存在であり、S・ホールは、アルチュセールグラムシを用いて、「呼びかけ」、「合意形成のプロセス」「移動する均衡」と説明する。


全体を通して非常に分かりやすかったが、ここまでスタティックに割り切れるかどうか、そしてカルスタを少し持ち上げてる感じが気に掛かる。こうした理論の見取り図を踏まえつつも、やはり、その内容に即した変容が気になるところ。例えば、マス→サブ→ポピュラーという流れを字面的に考えても、その微妙なねじれが何を意味しているのか。