少し長くなるが読書ノート。
観察者の系譜―視覚空間の変容とモダニティ (以文叢書)

クレーリーは、視覚−視覚装置+観察者(主体)−の18世紀を中心とした精緻な考察をもとに、従来とは異なるその変容を導き出す。しかし精緻過ぎて、少し疲れた。
視覚の形式やモードが過去の遺物として如何に取り残されているか。それは、どのような切断か。その連続性の要素は。著者は、特に1820,30年代を中心に見ていくことで、従来19世紀末に置かれる「視覚の革命」前夜、前段階に見られる変容の鍵を探ろうとする、フーコー的系譜学を念頭においた論。


まずはじめに著者は、従来、後の写真(カメラ)とカメラ・オブスキュラとを発展的、持続的に捉える関係を切り離す。視覚装置と観察者の関係において、両者は異なった組織化のモードに属している。
15世紀以降、C・Oは他の視覚器具や光学上選択肢ではなくなり、視覚を認識し、再現=表象を行うことで、新しい主観性、主体効果を生み出すものとなった。それは、名目上「自己決定権をもった」観察者を、外部世界から切り離し、私秘化した主体を示す形式である。つまり、「見るという行為が観察者の身体から切り離され、視覚が非肉体化される」。観察者の経験は、時間・空間的に、機械的な装置=「客観的心理」の世界に結合することとなる。
そしてこの装置は、デカルトライプニッツ、ロックらの論と結びつき、単一の視点(モナド的)=単眼の認識主体という隠喩を、もしくは、ディドロやコンディヤック、バークリーをして、視覚のなかに触覚を位置づける作用を生み出すものとなった。(ここまでで2章)

次いで、19世紀から始まるカメラ・オブスキュラ以降の、視覚装置と観察者の組織的変容−視覚の再編成が、様々な視覚装置の具体例と、ゲーテ(『色彩論』)やショーペンハウアーらによる考察をもって語られる。
彼らの論においては、観察者−身体的主観性という感覚の場が立ち上げられ、そこに視覚経験の能動的な生産者としての主体が導き出される。ショーペンハウワーや同時代の生理学は、主体のなかに生理学的主観が内在したモデルを打ちたて、主観的視覚の概念が生成され、その主体が外から制御される場を設えた。フーコーはここに、人間内部の超越論的なものが経験論的なものに書き換えられていく切断、そして権力の誕生「生−権力」を見出したのである。

こうして視覚が身体と結び付けられると、見るという行為に自ずと時間性が加わり、デカルト的理想が解体されていく。ゲーテやプルキニュは「残像現象」の研究から、ロックやコンディヤックから隔たって、観察行為を様々な力と関係の戯れ、相互行為として見た。そうしてそこに現れるのが、ソーマトロープやフェナキスティコープ、ストロボスコープなど時間性の経験を伴い、人間の身体を複雑な訓練下に置く、視覚装置である。同じくジオラマや万華鏡、そしてステレオスコープの誕生が相次ぎ、公衆は、その視覚を両眼的に定義され、視覚の対象を消費していくようになる。
またジオラマが未だ絵画的であったのに対し、ステレオスコープが見せた像は、遠近法的な秩序をかなぐり捨てながら、その物体との「等価性」を生み出す、視覚的かつ触覚的な配置=配列であった。そうして複製、再構成された像によって、観察者の身体は媒介項なしに直接、対象世界へと参入し、記号を消費、もしくは所有するようになる。ここに、古典的な観察者モデルからの断絶が示される。つまり、知覚する観察者とその対象となる世界は、その観察者の身体内で融合することとなった。

著者曰く、そこから二つの道筋が開かれる。一方は、視覚の至高性と自立性とを様々に肯定する、モダニズムという営み。そして他方は、観察者を規格化し制御することで権力の諸形態の進行へとつながる道である。

あー疲れた。こうして見ると、よくできててスゲー。まとめきれてないが。
しかし、所々、論の流れに即した一元的な見方、当たり前だが、戦略的で、穴がありそう。触覚に関してはもうすこし深く掘れそう、というか気になる。
意図的なようだが、写真への言及が少ない。従来への反論なのか、写真を出せば崩れてしまうのか?写真を組み込めば?
歴史的に見ても、やはりこの続編が一番気になるところ。
しんどなったので、また考えよう…