29日から、この三日間、佐藤先生の集中。
展示・コレクションの契機から出発して、アプロプリエーションにブリコラージュ、考現学から、近代、モダニズムを判りやすく説明して頂き、その間にはジャズ史やパンクにモッズまでもが挟まっていた。


ダダに関してはアプロプリエーションという概念がしばしば充てられる。今日は、ダダはブリコラージュ?とも聞かれたが、確かに彼らダダイストの製作に関して言えば、そうかもしれない。メルツなど完全にそうだ。でも、何かシコリが残った。
ブリコラージュが資本主義社会において一方的に情報・物質を与えられる近代的主体側からの一種の返答であると捉えるのなら、そこにダダイストの行為が当て嵌まるかどうかは疑わしいと思う。アプロプリエーションにしても、この概念を充てて歴史的にどう捉えるかという問題を考えなければ。第一次世界大戦という、ひとつの断絶?を主体の側に還元して考えてみる。


そこで、ブクローの話を引き込むことができるかもしれない。
ベンヤミンモンタージュ理論は最終的に、知覚の歴史的批判のあらましを述べている。モダニズムアヴァンギャルドが始まったのは歴史的な転換期においてであり、そこでは、共同生産への大衆の参与が起こるという衝撃のもと、ブルジョワ個人の人格形成に機能してきた伝統的なモデルが拒絶され、歴史的状況の社会的諸事実を承認した諸々のモデルが賛成された。そこでは、平等の感覚が増加していたのである、それは、複製という手段によって独自のものからでさえ同等(平等)のものが得られるという程であった。この知覚的な変化は独自性を打ち消し、暗に、ブルジョワの人格構造という階層的順序のシステムを取り壊していたのである。この個人心理の変容と同じく、より大きな社会構造の変容は、モンタージュの新たな諸々の技巧と戦略において予期されたのであり、そこでは、新たな触覚性が、新たな知覚の心理を打ち立てたのである。」