ベンヤミン「生産者としての作家」

文学が時代の生産関係のなかでどうなっているのか、ということを問う。文学の傾向と質=形式と内容における弁証法的な関係、そこで、ベンヤミンは作品生産における作家の技術に着目する。
具体例
ロシア文学―セルゲイ・トレチャコフ「オペレーター」としての作家
観客の役ではなく、アクティブに参加すること。ジャーナリスト、プロパガンディストとの違いは。
科学と文学、批評と生産、教育と政治が無秩序に分解、その文学的混乱の舞台=新聞
ブルジョワ新聞が保持してきた作者と公衆の区別→ロシアにおいて崩れる。労働そのものの発言。

生産装置を変革することなしに素材を供給→ブルジョワ新聞と変わらない。貧困をも資本に取り込むジャーナリズムのセンセーショナリズムを批判。
問題は、生産装置を変革すること。
写真家に、写真に革命的な使用価値をあたえる画像の説明を付与するように要求。
または音楽の例→アイスラー:激動する大衆のなかになにかが入り込み、そこから新しい形式が鋳造される様子

製作品だけでなく、生産の手段にかかわる仕事が必要=組織化の機能を備える。(その機能とは、プロパガンダだけではない)
自分以外の生産者のための指示を与え、つぎによりよい装置をかれらの自由に任せられるようにする生産モデルとしての性格が重要。しかも、読者あるいは観客から共同制作者をつくりだす。→ブレヒトの叙事的演劇

演劇の筋を中断させるウタ。中断の原理=モンタージュ:観客のイリュージョンを阻む。観客は、おどろきによって、それを現実の状況として認識する。

「革命的知識人は、なによりもまず、自己の出身階級に対する裏切り者として現れる」アラゴン
「作家の場合、作家を生産装置への供給者から、プロレタリア革命の目的にそってこの装置を役立てることを自己の課題とみなす技術者にかえる」→作家の仕事の技術的な質も必然的に高められる。

(いささか左翼色の激しい文章だが、形式と内容の二項対立にあって技術に着目する点、近代化に伴う諸々の二項対立が溶解するなかで現れる新聞、中断の原理としてのモンタージュ、自らの立場に自覚的な行動、などなど、おもしろく読めた。ブクローがいうように、モダニズムの枠組みに取り組む作家、しかし、ここでのモダニズムという言葉には注意が必要。そこには、ブルジョワプロレタリアートの二項対立が否応なくついてくる。また、ひとつのメディア論としても読み取れそう。生産装置といったものが具体的になにになるのか・・・)