"Against Plurarism" - Hal Foster

前日まで、論文要旨のつもりが訳文になってしまった。しかも適当。
ざっとまとめる。

フォスターは、1980年代前半の芸術(と建築)における多元主義が生まれた諸条件を分析して、そのイデオロギー性を激しく批判している。
フォスターが80年代までの前史をまとめているが、そこでは"スタイル"がキーワードとなる。戦後50年代のグリーンバーグ+抽象表現主義に対して、60年代、自己批判的なミニマリズムが生まれる。その後、70年代の芸術においては、作品の意義が、作者や作品の物質性へと回帰しがちであった。スタイルとして認識される作者性や作品は、それが認められていても、後には攻撃されることとなる。そうして、また新たなスタイルが無尽蔵に生まれていく。一見したところ、度重なる逸脱行為に思われるその様相は、結局、スタイルの異質性が、同質の方法によって保証されていただけに過ぎない。ここに、多元主義が存立する条件が存在したのである。またフォスターは、その他の条件として、資本に裏打ちされたギャラリーや、アートスクールの乱立を挙げている。
こうした「慣習からの逸脱」のために慣習を打ち立てるという反復行為は、結局、芸術の批判的意義を制度的なものにしてしまう。その様子を、フォスターは当時の「表現主義的」な芸術に見ている。ニューペインティングなどの絵画の復興機運にみられる、歴史主義的な「新しきに古きをみる」行為は、急進的な「古きに新しきをみる」行為を無化してしまうのである。それを強烈に批判するフォスターの言動には、裏を返せば、急進的なアヴァンギャルドへの評価を窺い知ることができる。彼曰く、こうした多元主義的な状況において必要とされるのは、「歴史的な償却」、「文化的実践への社会的抵抗」であるのだ。
しかし、もはやデュシャン的戦略の有効性が失効していることをフォスターは認める。ショックやスキャンダル、離反などといった戦略はもはや、慣習的な思考に抗うものではない。それら自体が慣習的なのであり、バルトの脱神話化も今や標準的なものでさえある。さて、それではどうすればいいのか?ここでの一戦略として、フォスターが挙げるのが、現代アートによるポピュラーカルチャーの引用である。彼は、マスメディアへと溶解するハイ・アートが、その大衆的なイメージや方法のクリシェを暴露する様に、芸術の急進的な批判的態度をみるのである(レヴィンやサーレ)。しかしそこにはもちろん問題が残る。それが批判なのか搾取なのか、といった線引きの曖昧さが、ひとつの問題としてある。
ポストモダン建築や芸術が、多元主義の様相を呈し、歴史的な参照を度々繰り返す様子を、フォスターは、激しく糾弾する。そうした行為には平等、無垢なものなどなく、ローカルやアルカイックな表象にもイデオロギー性がまとわりつくのである。搾取された地方主義は合成物でしかなく、芸術は、スーブニール、商品に成り下がる。抑圧的な芸術を迎合して急進性を吸収してしまう多元主義ポストモダンにおける「歴史への回帰」、これらは結局、閉鎖的なものでしかない。新たな閉鎖性や原理を打ち立てることなしに、いかにして芸術を急進的なものに保つのか、という問題提起によって論は結ばれる。

この批判的議論においては、結局、どうすればいいのか、という解決策は示されていない。ポピュラー文化との融合に際した芸術の批判的態度に、それが少し描き出されてはいるものの、具体的なものではない。文脈は違えど、時折、20世紀初頭にまで遡りながら、現代における芸術の急進性を切望する態度は、ブクローのそれと似通ったものである。また、この論評を、80年代初頭の芸術領野のひとつの見取り図として考えることができるだろう。