続き

せっかくなので気に入った作品を。

『肉の蝋人形』
以前に見せてもらい、物語の顛末も薄々気づいていたので、ストーリーやシナリオにショックはなかった。最後には大きなネタばらしがあるが、派手などんでん返しもなく(当時としてはどうか知らないが)オーソドックスであったと思う。あと、街を逃げ惑うシーン。街は実物なのか知らないが、妙にスカスカで軽い印象を受け、妙に浮いていた気もする。ショットの切り替えしなんかも、何かぎこちない感じ。


といったところで、あまり印象が良くないとの意見もあった。
ただ僕が気になったのは、蝋人形の写し方。蝋人形館のなかで登場人物が映るとき、登場人物がひとりでも、そこには自然と他の人形が、見切れることもなく佇んでいる。会話のシーンでは、180度で映される登場人物の横で話を聞くように人形がいたり、暗い館のなかをさ迷う後ろに首吊り人形が揺れていたり。人形が人形であることを強烈にアピールすることなく、つまり人間対人形という構図をつくらずに、顔の表面を失った人形師や口の聞けない不気味な助手を人形と同居させる。この助手は、最後には人形と顔を並べるほど。けれども人形は人形なのであって、そういった点が、上に述べたようなぎこちなさをもって映画全体にも反映しているような印象をうけた。音楽は特に奇抜なことをせずに、管楽器の音?が自然と耳に入る。ハラハラドキドキが嫌いなので、こんなとこが好きです。



ガタカでもそうした点が印象に残る。あまりにもキレイで、幾何学的、秩序だった街並みやオフィスにおいて、淡々と流れるストーリーでは、血や尿を使って自己が認証される。身体に深く根付いているようでありながら、どこか表層的なデータベースと人間の関係性のみが有効になり、その主体は、ほとんど他者を参照せずに、コンプレックスをもって自己再帰するのみ。(このへんが『カーニヴァル化』)それを欺く主人公は極めてアナログな手段を使っているのだが、上のようなリズムと相成って、見る者が不安に陥ることは少ない。近未来的な街並みや部屋、オフィスのショットとともに、どこか無機的に話は進んでいく。最大のピンチである山場の後、結局、犯人でない主人公に平穏が訪れるはずが、弟と再会し、ユマ・サーマン(顔は映画にピッタリ)と仲良くなり、なんだかシミッたれた人間ドラマになってしまった。そしてあのセンチメンタルな音楽が、どうもクドイ。そのまま終わって欲しかった。まぁ他に落としどころはないのかもしれないが。