第8回視聴覚文化研究会

西宮市民会館で盛大に行われました。
参加者12名、初めてお会いできた人やゆっくり話せた人もいてよかった。


問題の中身のほうは、『October』誌77号のアンケートとその回答のレジュメをキッカケに、議論を始めました。選出した回答者は、トム・ガニング、マーティン・ジェイ、ジョナサン・クレーリー。この三者の並び順通りに、視覚文化研究への肯定的→否定的態度が並んでいたように思う。僕は、ジョナサン・クレーリーをまとめさせてもらったので、それを中心に議論を振り返りたい。

クレーリーは自身をヴィジュアル・スタディーズに属しているとは考えず、自身の著書の主張と並べて、VS批判を展開する。著書のタイトルからも分かるとおり、<知覚>を18,9世紀の主観性=主体性の構築と複雑に絡ませて考察するクレーリーは、“ヴィジュアル・スタディーズ”という名が示しているような「視覚の特権化」を第一に批判する(クレーリーはこれを視覚の「特殊化」「分離化」「抽象化」という)。この批判はどの論者にも共通していたが、とりわけクレーリーが批判するのは、身体性や技術、制度など具体性に欠けた視覚性の抽象化である。

これと並んで、クレーリーは方法論の固定化を批判する。ここで気になるのが、1996年と現在とのギャップであった。現在でも、日米で差があるのは当たり前だが、当時の議論に出てくる言葉をみるに、“ニュー・アート・ヒストリー”の影がちらつくような気もした。このあたりから当日の議論では、美術史・美学・芸術学のあいだでのコンセンサスを図るようになったような気がする。<視聴覚文化研究会>を論じようとする機会に集まった人々が、自分のを視聴覚文化研究と思っていないという状況。

クレーリーが他と異なるのが、<文化>という言葉を滅多に使わない点である。ここでVSとVCSの差が気にかかった。レイモンド・ウィリアムズの「文化」の定義から始めるマーティン・ジェイと異なり、クレーリーが文章中で唯一<文化>といったのは、大衆「文化」において研究領野が闇雲に広がる点を皮肉に述べた箇所であった。生理学や知覚の歴史的条件、歴史記述を試みるクレーリーの起源への執着からすれば当然かもしれないが、議論を整理するなかで、この知覚レベルの問題と視聴覚文化研究の土壌を用意した文化人類学的な文化の問題を分けてしまう節もあった。だが、そうではなく、うまく重ね合わせていく必要があるのかもしれない。ジェイの後半部分やガニングを加えれば、そこにはメディアの問題も重なったはず。

けれども、10年のギャップを埋める作業(詰められていない気もする)や前提条件の確認が大半で、それぞれの主張が飛び出す前に終わってしまった感が残る。<視聴覚文化研究会>という看板を掲げる限り、制度レベルでのその打ち出し方や(「文化」に「視聴覚」と付す理由)、込み入った各自の方法論的な問題をも論じていくには、まだまだ。
またお願いします。自分の研究を反省するのには、非常に良い機会でした。ありがとうございました。