修士論文を書きながら、前回の研究会を振り返って。

「初期映画研究再考―トム・ガニング「アトラクションの映画」の再検証」

初期映画については、それこそガニングの論文を数本読んだぐらいでほとんど知らないのだが、僕自身、前回のゼミ発表で「ショック」についての議論に触れた。
世紀転換期には、映画だけでなく、「驚き」や「刺激」、「ショック」という言葉を当て嵌めるにお誂え向きの文化的事象が多い。僕が調べてる雑誌には、自動車に乗ってジェットコースターの滑走路を走り、一回転ジャンプ!というのものまであった。
この「ショック」という言葉は、物語映画との対比において、確かに一定のパースペクティヴを設定するものではあるかもしれないが、わかりやすい反面、どこか対象を曖昧にしてしまうような傾向があるようにも感じる。
初期映画であれなんであれ、内容そのものが「刺激」的なものもあれば、その提示の仕方によっても「ショック」は生まれる。加えて、「ショック」を積極的に再現することもあれば、発表者が指摘されていたように、映像の安定感に、つまりその質に驚きを覚えることもある。これまでの議論では、これら複数の位相がどこか一緒くたにされる傾向があったようにも感じた。これは当たり前のことかもしれないが、そこからは、物語映画における一方的に受身な受容者の設定、もしくは、送り手側からの「ショック」の提示、という図式ではなく、その関係がどのように転移していくのか、という観点が必要になってくると思う。

上を踏まえて、他のところの議論に続けて疑問に思うのは、「アトラクション」という言葉は、枠組みにまで達しているのかどうか。先週の発表では、たしかに言説を整理していくという作業が中心であった。この「アトラクション」が指すのは、観客に対してショックや刺激を引き起こすことを主眼とした映画、と考えるのなら、それは物語映画に対して紡がれた議論をなし崩しにする観点であり、そこからは異なる視野を提出することが求められるのだろう。そのための題材として、1900年の万博の映画は非常に興味深い。ただ、物語とアトラクションは水と油でもないような気もした。

「「ドイツ写真」と「正当化のプロブレマティック」―「ベッヒャー派」についての一考察」

コプチェクを使って「ドイツ写真」「ベッヒャー派」という幻想を明らかにしようとする議論。
発表者に後から話を聞かせてもらうこともできたが、ここには、写真の素朴なリアリズムを生み出す観念を「統語論」的と捉え、また、「インデックス性」から生じる「メタ写真」が「写真的なもの」に誤認されるという議論がある。そこにあって、巨大スクリーンと化して展示されたベッヒャー派という写真イメージが、その「インデックス」性と統語論を強化して、「ドイツ写真」をイコン化してしまう、という二つめの議論がある。
「ベッヒャー派」という具体例をもって、精神分析的な議論をつなげたおもしろい発表だったが、一見したところ直接的な両者の結びつきは、どうしても疑問を感じてしまった。
僕が個人的に気になったのは「誤認」もしくは「鏡像段階」の使用法。統語論的なリアリズムを鏡像段階という言葉で、写真の背後に写真に撮られた実物を想定することを誤認という言葉で一概に語れるのだろうか。イメージと自己、自己と自我の同一視が、鏡像段階、誤認と考えるのなら、議論では、それらが写真イメージに対する態度としてのみ考えられている印象を受けたからだろうか。発表者が言われていたとおり、それらは遡及的に構築される主体の認識の問題であって、決してイメージ自体の問題ではない。このとき、主体とイメージとの距離が問題になるだろう。
ともあれ、精神分析理論に忠実であれということでもない(僕自身もまだ詳しくない)し、精神分析理論に飲み込まれないための距離というのが難しい。

つづく