nobu01252008-11-19

今さらだが、研究会終了。

僕自身の発表は、20世紀初頭のロンド、デボネ、リシェという三人による身体表象の写真的実践の検証によって、国境線における「異常」な身体との比較から「正常」とされたジムナストたちの身体が、あるときには、サーカスの伝統を引きずり、雑誌上で広告としてスペクタクル的に、またエコール・デ・ボザールでは階級間における他者として、また科学的な標本として表象されていた。その契機となったのはいずれも写真イメージの介在であり、過剰なまでの彼らの身体表象は、正常/異常、見世物/科学、内/外、部分/全体という軸線を一身に引き受けていた結果、写真のなかでギリシャ彫刻にまで変身してしまう、という話。
しかし、芸術の科学化、科学の審美化という相互のかみ合いを意識しつつも、僕自身がジムナストの身体を最後まで宙吊りにしてしまった。普遍性を諦めて形態の多様性を賞賛したリシェの結論を、僕もまた繰り返してしまった感じ。ということで、次への課題ができた。

他の発表はおもしろくて、
ひとつは、≪ディヴィナ・コメディア≫を中心に「没入感」や「浮遊感」というタームが、ベルクソンドゥルーズの理論と1991年という転機における文化的メタファーから洗い出される。僕は両者の関係がしっかりと理解できなかったのと、「没入感」という言葉が同一化や一体化とはどう異なる/らないのか、聞いてみたかった。

もうひとつは、テレビ放映前史についての発表で、公開実験という「実践」が歴史的に考察される。最後には、現在におけるワークショップなどの実践を紹介されていたのもあって、そこで「技術」をどう捉えるべきなのか、興味深く聞いていた。後日、異なる機会に音楽療法という「実践」のお話を聞くことができたが、やはり現在的実践と歴史的研究を両分するわけにはいかず、その接点を常に意識すべきだと痛感する。


次は、12月20日。これはだいぶ楽しみです。
僕自身は年末まで、修士論文の書き直しにむけて、頭を転換する。