Images anonymes dans la presse de la Belle Epoque:entre objectivite et communaute - Anne-Claude Ambroise-Rendu

「ベルエポック期の新聞における匿名のイメージ 客観性と共同体のあいだで」

世紀転換期の新聞・雑誌研究者による論文。新聞によって爆発的にイメージが公共圏へと流入していたこの時代の挿絵や写真における匿名性を問題としている。
ここでいう匿名性とは3つあり、それらは作者・登場人物・共同体の匿名性である。

ひとつめの挿絵の作者の不在により、イメージは「意図のない」現実の断片として立ち現れる。もちろん、どれだけ無垢な観者でも、それを現実と間違えることはないのだが、惨劇という題材や挿絵による一定のコード化が所与のものとされた時代に、人々は、それを敢えて楽しんでいたかのようである。また、その挿絵の存在意義を強めたのが、当時の写真には不可能であった運動―たとえば肖像写真に対して、事件の決定的瞬間を描いた挿絵、さらには色彩―白黒写真がやっと掲載された時代(手彩色はあったと思うが)―であった。つまり、人々は「偽りでも現実でもない、トロンプ・ルイユとしての挿絵」を享受していた、という指摘。「サインのないイマージュが「芸術的な」イマージュとしてではなく、現実の擬似機械的な複製物として上演されるという意味において、挿絵画家の匿名性は、メディア的な保証として」、つまり主観性の欠いた客観性の担保として機能する。流用されないこと?désappropriéeについての指摘が不明瞭。
Le Petit Journalが上記のような戦略を備えたのに対して、L'illustrationは挿絵画家や写真家のサインによって、その美的価値や真正性を売り物にした。

ふたつめは、登場人物の匿名性である。イメージのなかの人々は、表情をもつものの名前をもたない。つまり、彼らは登場人物であって個人ではない。それによって、共同体における一般化、すなわち象徴体系として挿絵は機能する。また、それは惨事や災害といった主題を強調するのに役立つ。つまり、中央に配置された登場人物(図)と背景(地)とのあいだを、読者の焦点は往還することとなる。こうした性格は写真によって解消される。写真による死者の表象は、単に個々人を脅かす産業社会の操作不可能性のアレゴリーとして機能するだけでなく、人々の顔に少なからずその個別性を残すからである。

みっつめは、新聞の読者という共同体として想像されるものが匿名性に支えられている、という指摘である。ジャーナリストたちが相手にするのは、潜在的かつ抽象的な「読者」なのであり、その点において、新聞が新聞であることを理解した者たちを相手にすることは、いわば、「覚醒した夢想者」―ル・ボンの言う群集―を相手にすることである。とりわけ、情動や感情、感傷にまで乗じるイメージの同一化作用は、象徴や神話の彼岸へと接近することになる。まぁ「想像の共同体」。

以上、まとめ。「客観性と共同体」よりも「個別性と同一性のあいだ」で考えたほうが面白いと思う。