L'image comme stratégie :des usages du médium photographique dans le surréalisme

 担当教官が司会を務めるコロックへ。シュルレアリスム展に合わせて、それにまつわる博士課程の研究発表会のよう。午前から言ったが、頭が回らずフランス語も耳に入らなかった。楽しみにしていたフォトマトンについての発表は、原稿を送ってもらうようお願いした。
 午後、少し興味深かったのが、アメリカにおけるシュルレアリスム研究についての発表。おもに1930年代のアメリカの写真界についての話になるが、シュルレアリスムの実験的写真がシュルレアリスム的手法による心理的表現を追求するのに対して、写真装置によるメディアに固有の実践=アメリカ固有の実践を展開するストレート(モダニズム)写真とが対立し、また、シュルレアリスムフォトモンタージュが「新客観主義」写真とも対立することで、三角関係を築いていたという話。聞き取れないかなりの部分は想像で埋めているため、留保付である。プロパガンダや商業写真との形式的類似性をみせるシュルレアリスム写真は、商業的「流行」に吸収されることになるのだが、発表者がそこで「もうひとつの写真」として提示していたのが、Clarence John Laugh­lin、John Gutmann、Westonの三人の作品だった。とりわけ、解剖学模型や女性身体の多様などを多用するLaughtinの写真は、シュルレアリズム的性格を匂わせるものの、「擬似=ドキュメンタリー的」でもあり、徹底して画面内に入れ子上に画面=四角形を導入した構図設定をしている。そこから生じるグリッド線やアイレベルの視点が、どこか「モダニズム」的な印象も与えるし、時代を察しても、新即物主義やザンダーなども意識した写真であるように思える。Gutmannの写真は、政治的モンタージュからセクシャリテ、大衆文化、人形、仮面・・・など前衛芸術を一通り踏襲したような写真。しかし、質問にも出ていたようだが、大衆文化との関係は、ヨーロッパとアメリカ、各国でどのような差異をみせるのだろうか。各発表とも、45分とはいえ、矢継ぎ早に作家と作品を紹介するのはもったいない気がする。