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引き続き、昨日のコロック「芸術の社会史」へ行く。このテーマが今選ばれたこと自体に多少疑問を感じつつ、午後のディスカッションへ行ったが、T.J.クラークら美術史の専門家を中心に、社会学、心理学史(K・クラウスベルク)、科学史(B・ラトゥール)の発表を並べて、「芸術の社会史」を提示するという企図のようである。
まず、クラウスベルクの発表は、「脳の闘争」というタイトルのもと、ウィーンにおける近代の心理学史が、ヘーゲル主義にアンチを唱えることで展開していたというもの。かなり門外漢だが、弁証法モデルに代わる力動性を強調しながら、どのような原理のもとで個人と社会とが振舞うかについて、エントロピー理論や経済学と領域横断的に考察していた精神心理学を、芸術の社会史の名の下で新たなイメージ科学として見直そうというもの。興味深く聞いていたが、現在のマラブーらの議論とは接続するのだろうか?次の発表は、イギリス英語が聞き取れず、残念。T.J.クラークは、道具として芸術制作を捉える観点をモースから引き出し、さらに、実践としての絵画、社会的活動としての再現=表象を捉えようとするカール・マンハイムの美術史的企図に見直そうとする。それらを、社会的諸力が反映されたものとして作品を捉える70年代の記号論や、フーコーやデリダについての議論とも対比していたが、はっきりとした相違はわからなかった。三つ目は、芸術の社会学の多様化について指摘するもので、社会学的地平に開かれたものとして芸術を捉えようとする。ブルデューやフーコー、パノフスキーらの名前がその先駆として挙げられていた。最後にラトゥールは、学問間の架け橋をなす際の困難、また美術史と科学史との関係を社会的に説明するためのメタ言語と言語との接続の困難を指摘し、(成功?)例としてパストゥールの事例に言及していた。詳しくは、『Making things public』を参照とのこと。
最後の質疑の時間がたっぷりとあり、活発な議論が行われた。全員の発表に共通する観点として、「社会科学の収斂」というテーマが提示されたが、とりわけ、その際の認識論的問題を唱えるクラークや先のような指摘をしたラトゥールらが、その困難に意識的であったようである。とりわけクラークは、人間の諸実践の結合に際してそれらの自律性をいかに考えるか、という問題を提示していた。会場からは、「社会史」と「視覚文化論」との差異を問う声も聞かれた。これにもクラークが、イメージの効果effectivenessを問題とする後者が、イメージを適切に選択することの難しさを抱えていることを指摘し、懐疑的な態度を示していたように思う。クラウスベルクも加わって、すべてを対象として捉えることの危険性や、社会的構築物としてイメージや表象を捉える際のAgenceとは?という問題が強調されていた。
例によって、想像的補足が多々あるが、コロックとしては割りと噛み合い、盛り上がっていたようであるしおもしろかった。二日通しては行っていないこともあり、今なぜこのテーマが選ばれたのか、という疑問が解決たわけではないが。
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