ランシエールの写真論を読む。http://d.hatena.ne.jp/nobu0125/20100126#p1
ベンヤミン、バルトへの批判を皮切りに、最終的には、ヴィデオアートまでを射程に入れたイメージ論。とりわけ、バルトによる「プンクトゥム」が、その実、ストゥディウムとの相補的な関係にある「短絡的操作」であることが指摘され、これら「事物の置換不可能な発現形態」という写真の捉え方こそが、本論の批判の核心にある。それに対して、EvansやRineke Dijkstraらの写真を分析例としつつ、イメージの不確定性、写真と文学との関係性から彼が主張するのは、平凡・無関心的なイメージの審美化とは全く逆の事態、いわば、イメージの脱個人化、平凡化、無関心化といったイメージのあり方である。それは、ヘーゲルからヴィンケルマンの系譜に置かれたときに、自律や崇高とは異なる芸術のモデルニテの新たな側面として立ち現れる形象的作用でもある。イメージの直接的現前でも位置ずらしでもなく、メディア間における無規定的な組み合わせ、アプロプリエーション的な形象のあり方としての「思考的(沈思的)イメージ」は、80年代以降のビデオアートに頻繁に見られる特徴であるという。
具体的な分析と理論的な側面がバランスよく配置された論文であるが、後半部分には疑問点も。例えば、無際限に広がりかねない間メディア的なイメージ分析が、メディア収斂などの議論に対してどのような立ち位置にあるのか。写真論として始まった本論がビデオアート論として終わるというズレや、芸術の内/外といった観点が、どのように説明されるのか。そのあたり、彼の感性論とも併読する。いずれにせよ、ポストモダン以後のモデルニテ再考の一例として本論も捉えられると思うが、アレンジメントやモンタージュといった観点から「形象」を捉え直す彼ら(ランシエール・ディディ=ユベルマン・デュボワ)の布置が分かったような気もする。

以下、本論で取り上げられた映画・ビデオアート作品など

http://www.vasulka.org/Videomasters/pages_stills/index_6.html
http://www.vasulka.org/archive/4-20a/Denver%285059%29.pdf

感性的なもののパルタージュ―美学と政治 (叢書・ウニベルシタス)

感性的なもののパルタージュ―美学と政治 (叢書・ウニベルシタス)