Penser l'image 所収の論文、マリ=ジョゼ・モンザン「出所と行先のあいだのイメージ」を授業で読んでいる。
 「出所provenance」という語彙を用いる眼目は、主客関係のあいだでイメージを安易に「客体」と捉えてしまうような従来のスタティックな認識論批判にある。それはまた、「出所」と「行先」から想起される歴史性の問題に至り、単線的な美術史批判にもつながる。
 アリストテレスに倣って「イメージの学」を提唱する冒頭部分、イメージが、その出所において主体と相互規定の関係にあること、同時に、主体と客体のあいだで演算子operateurとして機能すること、が指摘される。

イメージの操作(=演算処理operation)は、記号を生み出す動作と不可分である。記号がその名のもとに可能にするのは、それなしには主体も存在しないような同定と分離のプロセスである

 イメージを安易に「客体objet」と規定してしまっては、主体そのものの「行先=運命」さえ切り詰められてしまう。「イメージの学」=「主体の学」において問うべきは、イメージ一元論でもなく、両者が相互的に生成されるプロセスである。ところで、<出所>と<行先>は歴史性、つまり時間的登記inscriptionを示唆する。イメージは、主観的反省というより、方向性をもつ軌道にこそ位置づけられなくてはならない。無時間的認識論に対して、主体とイメージが相互規定しつつ、出所から行先へと展開するような存在論的時間性・・・

 まだ二段落。記号を拠り所とする主体とイメージの生成過程、主体とイメージを撚り合せるような関係性は、どことなく可視性なんかとも絡み合うだろう。ただし、そこで「軌道」を歴史性以外の時間軸として捉えられないか。