先日、ycam山口情報芸術センターメディアアートの作品を見に行った。

視線を通じて世界と繋がる。― 視線入力技術
LabACT vol.2 「Eye-Tracking Informatics〜視線のモルフォロジー」
日付/時間 :2011-12-04(日)-2012-03-25(日)11:00-17:00
http://www.ycam.jp/art/2011/03/labact-vol2-molecular-informat.html


 知覚をテーマにしてきた三上晴子(こちらでも少し紹介されている。)による作品Eye-Tracking Informaticsを体験する。東京でも行列ができていたそうだが、こちらでは2人一組でそれぞれが椅子に座り、三点からLED光線によって右黒目の位置を測定するカメラを装着すると、自分の視線の軌道が眼前のスクリーンに投影されるというもの。見つめた先に再現された「視点」を、ほぼ正確にみずからの意識/視線に対応する点として画面上で移動させることができる。これはもともと全身が動かなくなったグラフィティのアーティストTemptのために製作された装置らしく、ベッドのうえでも視線だけで絵柄を描き出すことができるという代物らしい。
 これを応用した今回の作品では、画面上の中心となる点から手前に向かって放射状にみずからの「視線」が伸びており、やや遅れをもってそれらの線が「視点」の軌道を再構築することになる。2人の赤と青の軌道がスクリーン上で幾何学模様を織りなし、対面していると設定された2人の視線が交錯するとそれが増幅し合い、さらにはその動きと呼応する音響が耳に充てられたヘッドフォンと会場(それぞれ異なるらしい)に響き渡るという仕掛け。

 点として表示されるみずからの位置に向かって画面中央から放射状に線が伸びて次々と移動するため、画面上には三角錐が仮想的に構築されているとも考えられる。これはおそらく眼球を捉えるカメラの視界を、三角錐として画面上に立体的に再構築しているということだろうか。[図は勝手なイメージ]
 今回の作品体験では、あくまでもこの装置が人間と外在的な関係しか結んでいない以上、自分の視神経や情報処理機構にまで機械装置が組み込まれるようなブレインマシン・インターフェース(BMI)を実感できたというわけではなかった。それでも、私の意識する限りでの視神経を「乗っ取られた」もしくは「取り憑かれた」ような感覚を少なからず覚えたことは間違いない。そもそも、「視線」や「視点」が言語的な仮想物でしかないとすれば、そこには奥行きや焦点を伴いながら漠然と広がる「視界」がつねについて回るはずである(厳密には、これも言語的な産物でしかないかもしれないが)。その意味において、軌道として再現された立体的な模様は「視界の作動圏」のようなものを形象化しているとも言えるだろうか。もちろんそれは、そのインプットのレヴェルで少なからず時空間上の誤差を伴う機械装置との関係に依拠しており、アウトプットでは表現媒体としてのスクリーンや光線に制限されたものに過ぎないし、さらにはカメラと人間の視界が同一ではない以上、「視界」を二次元であれ三次元であれ「再現/代理=表象する」ことなど不可能なのかもしれない。そもそも「再現」なんて意図されておらず、あっても「呼応」か「リンク」ほどに過ぎないと思うが。
 二回も体験させてもらい、おおよそ実際の装置とのズレを克服してどこか操れるような気にはなったものの、それが実際の「視線」や「視神経」の働き(例えば、映画館でのスクリーン体験)とどれほど対応しているものであるのか、むしろ椅子に座ったときには普段とは異なる視覚が生み出されようとしていたような気もするし、いずれにせよ普段みずからの視線の動きをどれほど意識化していなかったのか、なんてことを帰路の運転中、車のフロントガラスのどこかで自分の視線が何かしら形を結ぶような残像に襲われつつ考えさせられた。