集中講義

物語絵画のナラトロジ−分析と題された今回の講義では、言葉による語りの意味、すなわち一般的に言うシニフィエが、心的イメージではない、という結論の仮定から始まった。それを考える方法として、小説や映画でも発展してきたナラトロジ−分析を、物語絵画のイメージへと当て嵌め、特にその中の語りの視点を探ろうとすることが狙い。


そのための概念規定としてのひとつは、バルトやトドロフにも影響を与えたジャン・プイヨンの視点設定。そこで区分される語りの視点とは1、<背後からの>視点(超越的、全知の視点)2、<ともにある>視点(個々人の内面が主観的に語られる、画面内に設定された視点)2’、<情況>の視点(作中人物でないのだが、情況を経験した主体の視点、エスタブリッシング・ショット)4、<外部からの視点>(内面に入りこむことのない、警察調書的な視点設定)

これらを物語絵画へと当て嵌めていく。


俯瞰的な<全知>の視点が設定された古代、中世の物語絵画の画面内では、異空間、異時同図法とでもいうべき圧縮が施され、またそこには予型論的なドラマトゥルギーも加わる。結局、物語絵画は、言葉の語りの文法、統語論的秩序に従って構造化されたものであった。しかし世俗化と共に、テクストの図解として従属していたイメージは解放され、自立する方向へと向かう。


内的視点(逆遠近法)や作者の位置の多数化を経て、遠近法へと向かう過程は、絵画平面の自立の過程でもあった。そこでは、画面内に設定された視点、もしくは超越論的視点が設定され、それらが観者の視線と複雑にもつれ合うなかで、見る主体が設定される。現実世界とつながろうとした物語絵画世界は、次第に観者を現実世界から物語世界内へと引き込もうとするようになる。


最後に、<ともにある>視点。ルネサンス以降、画面内には指差しや視線による観者を画面内に引き込む指示体が登場する。しかし、最後には、画面内に「没入のモチーフ」(何かに入れ込む人間)を取り入れいれられ、当時のリアリズム絵画と相成って、物語絵画は必然的に我々が画面内に入り込むことを容易にする。すなわち、完全な<ともにある>視点が設定されることとなる。



疑問点としては、
4つの視点の線引きは、案外あやふやなものではないか?
構造主義なんかの主体概念との結びつき、間主体性?
超越論的視点と、視点・視角のズレの違いとは?
今読んでるユベルマンとのつながり

視点設定や、結論への導き方など、自分の研究には大いに嵌めることができそうなので、それはまた改めてやらなくては。