前回の発表で、断片化された写真が記号化され、象徴化されるということを僕は連発したのだけれど、この「象徴」という語が強調されればされるほどに、ブクローの言う、モンタージュのアレゴリー的な作用とは相反してしまう。いかにこれらが両立するのか?


アレゴリー化とは、モノが商品へと減損されること、つまりシニフィエシニフィアンが分裂し、使用価値から交換価値へとシフトすることへの対抗として、反復的に同じような状況にモノをおき、脱コンテクスト化することで、商品化されるモノを救い出す、ということである。この作用全体がアレゴリー的作用なのであり、言わば、この作業の2段階目は、意味の象徴化ではなく、寓意化なのである。そこでは、シニフィエシニフィアンが再び分裂し、物質性が強調されることによって使用価値が回帰する?、とまで言えるのだろうか。


いずれにせよ、この手続きにフォトモンタージュを重ね合わせるのなら、言わば、象徴的に商品化された記号である写真が、モンタージュによって再び寓意化されているのであり、換言するなら、モンタージュという手段の結果、知覚される写真は物質的にモノへと回帰しているのである。この二度目の作業の結果を指して寓意化と称する一方で、僕が言おうとした象徴化は、写真に撮られる、モンタージュされる、というそれぞれの単一の契機を指していた。しかし、モンタージュされた結果、寓意化が起こっているのならば、それを象徴化と称することには矛盾が付きまとってしまう。ウーン。



もとい、アレゴリーとシンボル。
アレゴリーとはモノを救い出す、といったが、それは次のような過程を経てのことである。脱コンテクスト化すること、つまりそれは、元来と異なる構造のなかで対象を相対的に見直すこと。対して、象徴化とは、もちろん文化的なコードには属していながらも、その対象を半ば絶対化して見ること。中秋の名月は、暦の上でアレゴリー的であり、満月としては象徴的なものなのである。これをモンタージュに当て嵌めて考える。作品の表面上において、物質的に脱コンテクスト化された対象は、その作品という構造内においてアレゴリー的に機能するのであり、一方で、僕が用いた見方は、断片化された写真に注目する余り、それらが象徴的に機能していた、ということになる。
以上のように大別できるとして、どちらの側面も備えている、と考えていいのだろうか?
香川さんは、アレゴリーに関しては余り多くを述べておらず、フェティッシュ化について強調していた。象徴化?再読。