[book] burden of representation John TaggThe Burden of Representation: Essays on Photographies and Histories

部分試訳
1、A Democracy of the image

前節:カルト・ド・ビジットによる肖像写真の商品化
   ナダール;顧客との深いつながり ←パトロン的関係
   ディズベリ;個人的関係の消失  ←資本主義的関係


しかしながら、市場のあらゆるレベルにおいては、ナダールの用いた湿板技法よりもさらに簡便な過程への需要が、19世紀後半の多くの実験へとつながった、つまりここで再度、肖像写真の実践が変容するのである。1864年、コロジオン乾版が発展し、それが製造され、既成の写真家に用いられるようになった。しかし、その利用の簡便性は感光に多大な損害をもたらしたのであり、それはなぜなら、必要な露光が、湿板のそれの3倍もあったからである。しかしながら、1878年までに、Charles Harper Bennetが、コロジオン乾板以上のゼラチン板を発展させ、その露光には25分の1秒、すなわちスナップショットのスピードしかかからなくなった。肖像写真の実験的開拓が限界に達した当時、経済的に決定的な変容が起こった。工場主(製造会社)はすぐに、ゼラチン乾板の使用に取って代わり、そのことは写真家たちを、著しい制限から解放したのである。つまりそれは、常にプレートを準備して、濡れたままにしておく暗室をもつという必要性であった。プレートは今や、発展すべく他の者に与えられ、写真現像産業の基礎を打ち立てた。新たな材料のスピードはまた、三脚を必要とさせず、その結果、初めて、カメラが手中に収まったのである。手持ちカメラの当惑するような配置は、1880年代に市場に現れ、そこには「探偵カメラ」や、何枚かのプレートを装填することで12以上の露光を再装填なしにできるカメラが含まれていた。これらのなかで最も有名なものに、1888年にGeorge Eastmanによって導入された、ロチェスター乾板製造法がある。彼がカメラにつけた名前は、どんな言語でも覚えやすく、発音しやすいと判断したものであった。それが「コダック」である。


コダックにおける順応性のある巻取り型のフィルムの技術的発明は、充分に重要なものであったが、その衝撃は、写真製品の市場化の概念における更なる急進的な変化と同時進行だったからこそであった。プロと熱烈なアマチュアの市場が、真摯な写真家にとってはほとんど魅力的でない珍しさと技術的な目的に飽和していたことに気づき、Eastmanは、それまで写真を撮ったことのない階層の人々全体に対する販売促進を目的とすることに決めた。Eastmanが元となったのは、カメラだけでなく、写真実践の境界を組みなおすことであり、そしてそれを支持するのに充分なほどの標準化した素材の生産のために、産業体系や機械を組替えたのである。「あなたはボタンを押すだけ、残りは我々がします」というスローガンをもって、コダックは、十全に産業化された生産過程を通し、写真を多くの者にもたらした。プロの肖像写真家のところへ行く代わりに、人々は今や、訓練や技術なしに彼ら自身の写真を撮り、親密で、形式張らず、上手ではない産物を家族アルバムに収めたのである。かつて、彫刻家や細密画家に取って代わった肖像写真家の仕事は廃れ、もしくはアマチュア市場に迎合する写真屋を開くことで、副業に走ることを強いられた。


写真がその二次的な技術的革命―乾板、フレキシブルなフィルム、早いレンズと手持ちカメラ―を被ったこの時代は、普通の文字と組まれた印刷に写真を複製する問題が解決された時代でもあった。これは写真の状況を変容させ、それによって、Fox Talbotがネガを発明したのと同じぐらいに劇的な変容が、あらゆる伝統的な絵画的再現=表象の形態に起こったのである。1880年代のハーフトーン板の導入によって、イメージ生産の形態がまるごと作り直された。それらより以前のフォトグラビアやウッドバリータイプと異なり、ハーフトーン板は、少なくとも、本や雑誌、広告、とりわけ新聞における写真の経済的で無限の複製を可能にしたのである。1880年、New York Daily Graphic紙において初めて用いられ、それらは急速に、芸術家や版画家の介入を必要とした挿絵に取って代わり、そして1897年までに、New York Tribune紙において定期的に用いられるようになった。世紀転換期までに、公衆は、彼らの新聞紙上にある写真のなかのその日の顔やニュースを期待するようになったのであり、そして、電信による写真送信のための方法が発明されたときには、Daily Mirror紙のような新聞紙の発行には何の障害もなかった。この新聞は、写真だけでイラストをいれた最初のものである。私が(図13に)選んだ例は、奇妙なものであり、そこでは、我々が見てきた他のようなものとは似ておらず、プライベートなイメージが、その「人間の顔」の再現=表象に劇的な出来事を投錨しようとする10年後の試み―今日まで、Mirror紙に特徴的な―の新しい流通に与えられていた。それがまた示していることとは、コダック社が、形式張らない家族の肖像に変容させたように、挿絵入り新聞が、典型的で賞賛された公的な人物の肖像の複製の下取りを止めたことである。もはや、有名で力をもった誰かのイメージの所有は、異例の事ではなくなった。使い捨てイメージの時代が始まったのである。