A・セクーラ「写真の意味の発明に関して」
写真の「中立性」「無媒介性」を批判するという点において、タッグのそれと同じであるのだが、それを暴く方法は異なる。タッグが司法写真など権力と写真の作用からそれを導出するのに対し、セクーラは、写真が意味を紡ぎ出す際のコンテクスト、写真に関する言説、それらと写真の関係性に着目する。


 「写真は、それのみである場合、意味の<可能性>を表しているに過ぎない。 具体的な言説状況に埋め込まれることによってのみ、写真は、明白な意味論的帰結を産出することができる」


そこでセクーラは、これを歴史的に検証するため、美的写真の起源としてのスティーグリッツとジャーナリズム写真の起源としてのルイス・ハイン、それぞれの写真、言説状況を分析する。
写真の換喩的機能を隠喩的機能にまで衰弱させる、美的言説に囲まれたスティーグリッツの写真を分析するに、そうした美的言説の閉鎖性の帰結が写真芸術の神話性である。対照的に、美的性質を潜在化させて政治性を前景化させたのが、ハインの写真に関する言説。社会主義者でもあったハインの写真と言説に、セクーラはふたつの意味、ふたつのコノテーションを見出す。
ハインの雑誌写真の分析とキャプションとの関係性から、そこには、経験的レベル(被害者のレポート)と、精神的レベル(労働者の「人間性、尊厳」)の含意が見出される。つまり、レポートとしての写真であるハインのリアリズムは、同時に、彼の神秘主義的、スピリチュアリズム的な表明としての写真を保証する。そうして、ハインはブルジョワの美的言説によって流用され、写真史における「プリミティブな」人物として発明されたという。

ここで写真とその言説に関する図式的な結論は、次のような二項対立である。「象徴主義的」神話―「現実主義的」神話、「芸術写真」―「ドキュメンタリー写真」、予言者seerとしての写真家―目撃者としての写真家、そして、表現・想像力―経験的真実、感情―情報、隠喩―換喩。


この二極のひとつである「ドキュメンタリー」・経験的・換喩という写真の特徴が、セクーラの言う写真の<情報的価値>にあたるだろう。ただしハインの写真でみたように、この二極は絶えず相互に干渉するだろう。またその「証明」としての力は、植民地写真や(パリ)警察の犯罪写真など、政治的権力と結びつき、それは同時に、大量複製とも絡み合う。情報的価値は、それを消費する「大衆」という共同体によって保証されるとも言えるかもしれない。
もちろん誤解を生みかねないと本人も断っているが、上の二項対立は、スティーグリッツとハインという対称的な配置の必然的な帰結だろうと思う。ただ、写真とテクスト(記事)の関係をもっと細かに分析することで、写真の情報的価値に関する考察を展開できないか。写真が必然的にコンテクストに意味づけられるならば、その点を詳細に明らかにすると同時に、また雑誌媒体の歴史的な展開ともそれを組み合わせないとならない。写真家を決めるか、対象の軸をどう絞るか。