TateModernは、期待を裏切らない展覧会だった。「Exposed−窃視症、監視、そしてカメラ」というタイトルから、前半は「窃視」が中心。スパイカメラからEvansの地下鉄シリーズ、19世紀以来の米のドキュメンタリー写真や仏のポルノグラフィなどが並ぶが、後者が窃視なのかは微妙なところ。ただ、断片化された身体、視線を外した被写体を介して写真家と直接的に視線を重ねていると、写真の場合、窃視といえばすべてがそう見えてこなくもない。パパラッチにキレてゴルフクラブを振り上げるジャック・ニコルソンの写真に笑う。美術館に飾られるとは。
ピーピングショウを演じながら客を撮影したCammie Tolouiや、吉行耕平の公園シリーズ、事故・自殺の決定的瞬間を捉えた写真が続き、最後は監視がテーマの大部屋に。
部屋の入口には、軍事航空写真に始まり、軍隊の夜間スコープ、電波レーダーなどの軍事技術が並ぶ。続いて、匿名の手紙によって被写体との接触をすることなく窓越しに(盗?)撮影した横溝静、監視カメラに自ら映りこんで私的なモノローグを行うEmily Jacir、ソフィ・カルの探偵ものなどが一部屋に並べられる。最後にはファロッキのEye/Machine?の部屋が用意され、すべてを終えた出口の角にはトーマス・デマンドの監視カメラが掲げられて終わる。

ただ、合間に並ぶビデオアートのほうが個人的にはおもしろかった。オーストラリアのDenis Beauboisは、三日がかりで自動制御の監視カメラに向かってカンペを見せて交信を試みる様子を、監視カメラ的に記録する。
上記のように、瞬間的な視線を観者と直接的に重ねあうことを得意とする写真に対して、第三者的な視線を持続させるからこそ監視として機能するビデオとを対立させることもできる。ただ、展示を見ているだけでも、画質、モニター、視聴という三点からビデオアートと監視カメラとの親和性のようなものが伺えた。画質については、いまや走査線が流れる画面は監視カメラを暗示することになり、それをテレビモニターで覗き込んで観賞するビデオ作品はそのことが監視的視線を強化し、何重にもメタ的な視線―監視カメラを監視する映像を監視する視線―を観客に確保する。最後に、ヘッドフォンによって聴覚的にも展示空間から切り離されて私的な鑑賞に入り込んでいたはずの観客は、突然ヘッドフォンを外して周りの視線を気にしてしまう。監視カメラを監視していたはずが、自己の監視に慌てる観客。
いずれにせよ、公と私、権力と欲望、有名と匿名とが捩れ合うイメージのなかを貫く視線となった人たちを眺めるような展覧会。