Pervasive Animation (AFI Film Readers)トム・ガニング、「変容するイメージ――変身と運動におけるアニメーションのルーツ」
in. Pervasive Animation, ed. Suanne Buchan, AFI Film Studies, 2013

「あらゆる映画はアニメーションであった」というマノヴィッチの論争的な主張と、昨今のアニメーション論においてほぼ必ず召還されるエイゼンシテインの原形質論、この両者がアニメーションを論じるうえで叩き台になるとするなら、その根底には自身の関心であり続けているイメージの「インデックス性」と「運動」論が控えていると著者は言う。なかでも本論の目的は、従来の原形質論が指摘してきた身体の図像的な再現=表象よりも、むしろそこで果たされる知覚のプロセス――「テクノロジーによって獲得されたイメージの新たな経験」――を浮かび上がらせるため、この概念の源流に17世紀以来のブロウ/フリップブックを主題とした「変身」と「運動」という問題系を見出すことにある。日常的な運動を変身させるフリッカー効果とその技術的な操作可能性において、これまでに著者が映画前史に指摘してきた「ヴァーチャル・イメージ」が「原アニメ的なイメージ」として浮かび上がることになる。

「もし写真的な映画がインデックス性の指示参照的な側面へと私たちを動かすなら、アニメーションという観点からの思考は、テクノロジーの物質性とその人間の知覚に対する作用へと向ける。それゆえ、アニメーションは世界の運動を捉えることへと向かうかもしれないが、それはまたわれわれを、変身と魔術の不可思議さへと回帰させるのである。」(p.66.)

以下雑感になるが、本論文を含め、最近のガニングの議論が一貫して運動論という関心のもとに進められる一方で、そのことはますます、マレーやマイブリッジの連続写真という「科学的な」映画前史にインデックス的な実写性や静態的な特徴を認める傾向を強めている。たしかに、連続写真の系譜が「科学的な実証性」ゆえに、ガニングの言う19世紀の「見ることと知ることの同一視」という認識モデルに連なることは当然なのかもしれない。とはいえ、シルエットに還元されたマイブリッジの初期の《馬の足並み》や――時期を限定したうえでこの連続写真を「現実効果からの解放」と説明したクレーリーの議論――、モーション・キャプチャーに他ならないマレーの幾何学的連続写真を想起するとき、ガニングの態度が写真=科学/魔術=スペクタクルといった二項対立を強化してしまうと考えるのは言い過ぎだろうか。少なくとも、彼のスペクタクル論がアニメーション/ニューメディア論の批判的検討に差し向けられる一方で、ますますクレーリー(やキットラー)の科学史的なメディア論とは離れるかのようでもある。全然構わないとしても、このような身振りは時宜に適したものでしかないのか、現在の映画研究において何か徴候的な意味をもっているとも考えられるだろうか。

この点において、ガニング自身も現物は未確認であるものの、マイブリッジの連続写真に10年以上も先立ち、フリップブックに19世紀演出写真が利用されていたという指摘は示唆的な事例となりそうだ。科学とスペクタクル、写真と(原=)アニメーションとの関係において、20世紀初頭の生物学の映像に原形質性そのものを見出そうとした自分の発表が今後どのような方向に向けられるべきなのかも、もう少し考えなくては――そもそも、写真=科学/映画=スペクタクルという映像史のねじれを問題視したのがカートライトだった。また、先の学会で指摘して頂いたように原形質性の議論が情動イメージの問題にもつながるなら、当然ながら変身という問題系においてアニメーション=手描きという特徴のみが強調されるべきではないだろう――ガニングはドゥルーズと微妙な距離を保ち、手短にベルクソンを引き合いに出すのみであるが。同時にガニングとドーンのフリッカー論、ブキャットマンの原形質論やローザックのフリッカー小説も興味深い。

Bad: Infamy, Darkness, Evil, and Slime on Screen (Cultural Studies in Cinema/Video)

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The Poetics of Slumberland: Animated Spirits and the Animating Spirit

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Savage Theory: Cinema As Modern Magic

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フリッカー、あるいは映画の魔

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追記:フジフィルム・スクエアにマイブリッジの『動物の運動』が展示されていた。オリジナル・プリントは一点のみで、他のものは拡大プリントのうえ焦点がぼやけていたものの、やはりほとんどすべての写真の片隅に数字が打たれていることが確認できる。写真の差し替えを確認することはできなかったが、右から左へ向かう「イレギュラーな」時系列の編集もある。それと並ぶ常設展は小ぶりながらも、カメラ・オブスクラやカメラ・ルシーダに始まり、ダゲレオタイプとそのステレオ写真、さらには英米圏を中心とした歴代の写真機を並べている。

上記の論文とも関連する19世紀末のフリップブック・ビューアーを実演することもできた。家庭用の動画装置としてイギリスで商標登録されたキノーラは、フータモのピープ論文でも言及されていた(えらい値段の参考文献)。展示解説によれば、この家庭用ビューアーは1895年の映画の登場と前後して販売されたものであり、イギリスに先立つフランスではリュミエール兄弟によって流通していたという。実演したものは1分ほどの時間を要する数百枚の長さで、手回し機械に取り込まれた図像はもはや逆回転させることができない。ルーペで覗き込むという受容形式や支持体が写真プリントであったことを考えるなら、エディソンのキネトスコープとさして変わらないようにも思える。とはいえ、その内容はエディソンと異なり、幻想的な舞台を演出する書き割りのなかに迷い込んだ女の子の演技がグリフィス映画のような大袈裟な身振りを見せ、さらにメリエス映画のようなトリック演出によって突然画面中央に現れた男に対して驚いてみせるという一応の物語形式をとっている。およそ初期映画にみられるこれらの演出が同時代の家庭用の視覚機器においても踏襲(先取り?)されていたことは実際、youtubeで検索してみると魔術ものが多いことからも伺える。一方では、その多くが遠征先での記録映画的な特徴をもつリュミエールの映写技術は、他方では家庭用フリップブック・ビューアーによる物語演出との二枚岩的な商業戦略であったのかもしれない。また、フリップブックですら機械にはめ込まれると瞬間的な登場というトリックを手元で(再)確認することが不可能になるということは、これらトリック演出が当初の映写技術とは異なり「技術的な一回性」を条件としたものであったとも考えられるだろうか。。

A Companion to Early Cinema

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