ドイツ・ダダのフォト・モンタージュは、断片化された写真が記号として重積されて、その過剰さも相成って、見る者の視線はその上を参照点なく彷徨い、それぞれの記号としてのその意味内容が、重層的にメタレベルへと吊り上げれていく。
対して、ピカビアの写真を用いた絵画に共通するのは、平面性を殊更に強調し、その基本的な<絵画としての>特性ゆえ、見る者の視線はその中心点をもって(物理的にはマンレイが、主題的には目が)平面上で誘導されることである。(とくに視線の誘導という点に関して、彼は意識的であったようにも思われる。)
肖像写真においては、足と顔という意味内容を用いながらも、あいだに挟んだテクストの作用(?)と、モチーフを(絵画的に)中心に置く事で、見る者の視線を次第にそこへと集め、そして彼の目と我々の視線が合うことになる。そして彼のズレた目が、その裏の地面(キャンバス)を見せることで、我々の視線を挫くことで、その平面性、強いてはその薄っぺらさに気付かせるのではないだろうか。そして破り取られたようなキャンバスにも注目したい。いたるところで強調される平面性。
カコジルにおいては、権威の象徴として芸術家のサインという痕跡と、そうした芸術家の肖像を写した痕跡(インデックス)としての写真が、並置して壁に貼られている。そして壁の向こう側からこちらを覗く目。描かれたものではあっても稚拙で決して絵画的とは言えないイラストのようなその目は、それが故に存在感を持つようでもあり、決してそれを見る我々と視線が合うことはなく、虚ろな視線を、こちらへと漂わせている。ただし、向こう側といっても、決して奥行きはなく、むしろ壁と同化したような描かれ方をしている。そして同じように、〜〜の首から上の肖像画は壁と同化するように、切り取られ、貼り付けられている。平面上を浮遊するような芸術家の顔。つまりここでも、周到に絵画の平面性が描かれるのだ。

(伝統的)絵画を否定しつつも、写真を利用し、しかし徹底的に絵画的な特性にこだわる、ピカビアのアンビバレントな態度、そこで写真はコンテクストから切り離されるも、不透明な意味を担いだ媒体として平面へと還元される?