ツァラ→サインにサイン。また写真を用いた作品にも次のようなものが見られる。@題名から察するに自画象であると考えられるが、ここにはそれぞれデッサンにDessin、写真にPHOTOという書き込みがなされている。こうした彼の自己指示的な性質が何を意味するのか?

・ラスタ
ここに現れるハイヒールや帽子、パイプなどは当時の文化的なシンボルであり、ベルリンのフォトモンタージュと同様の指摘ができるだろう。しかしそれらをよく見てみればデッサンやおそらく広告であらう何であり写真ではないことがわかる。そしてその奇妙な配置を辿ってみれば我々の視線は中央のピカビアの肖像写真へと導かれるのである。

・カコジル
写真壁というメディアの常套手段を用いて(19世紀末にはパリで街頭でのビラ広告を規制する法律)
考えてみれば肖像写真、そのなかでも顔を切り抜く行為は興味深い。顔は、表情を持ち人間の内面を最もさらけ出すとどうじに、化粧などの仮面性をも被り、最も多種多様な側面を持つと考えられる。逆説的にもその顔の一瞬を写真に収め、人は象徴的に用いる。この矛盾を有しながら、この表面上にばらまかれた顔は、手書きによるサインと併置されている。
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と考えるなら、顔は周到に記号化を免れるのである。それではここに現れる顔は、何を示しているのか?これらは皆、当時の文学、美術、音楽界を賑わす文人たちである。そうした顔ぶれが浮遊する場、つまりある種のメディア空間ではないだろうか。
顔がメディアを通して社会に流通する。→貨幣81
何気ない顔を写しているはずの写真が、断片化されながらも記号として意味を産出する訳でもなく、自己同一性を保証するはずが仮面性やサインとの関係により弱体化されることにより、その存立が揺るがされるのではないだろうか。そして上述したメディア性を加味して考えるなら、写真を用いたメディア表象がなしくずされるのである。