解放された観者 ジャック・ランシエール
 ディディ=ユベルマンの推薦で、一章をざっと読む。ここでいう観者とは演劇を軸に考えられているものの、最終的にはそれが、メディアの問題へと接続される。冒頭で、ブレヒトアルトーなど旧来の劇場論が、劇場=真実とスペクタクル=シミュラークルというプラトン的二項対立の作り直しであることが確認され、そしてそこに潜んでいる「観客が見ることとは、演出家が彼らに見せること」という関係(「縮減不可能な深淵に引き裂かれた師弟の教育的関係」)、そこにおける原因・結果の同一性が問題に付される。
 この不平等な関係に対置されるかたちで、無知と知との距離を正確に認識し、知性の平等性を確認すること、それが知的解放の実践とされる。師の立場を占めるためではなく、経験を言葉にし、試し、翻訳する技術によって、無知と知とのあいだを跡付ける道筋、境界線と立場のあらゆる固定/階層化を絶えず撤廃する道筋こそが、知的行為なのであり、そこでは行動する者と見る者とのあいだ、個人と集合的身体のあいだの境界線を揺るがすことが必要とされる。
 これら横断されるべき境界、揺れ動かされるべき役割分配の問題は、ランシエールによれば、コンテンポラリー・アートのアクチュアリテと結びつく。現在、特定の芸術的実践は、固有の領域から外に出ようとし、それらの位置と権力とを交換しようとしている。これらジャンル混淆的なアートの理解や実践に対しては、芸術作品の形式の再活性化、方法のハイブリッド化という考えがあるが、彼による3つめの方法とは、劇場の光景に与えられた共同体的な力の特権を無効化しつつ、劇場の光景と歴史の物語性・書物の読み・イメージへの視線との平等性を再建すること、つまり、異質なパフォーマンスが互いに翻訳される新たな平等性の光景としてイメージを考えることである。

現代的なイメージと観者の問題、とりわけその個人―共同体(の身体性)を考える上で、なぜランシエールが演劇論を参照するのか、そもそもの理由をもう少し考えてみる。