映画の文化史のセミネールへ。 http://hicsa.univ-paris1.fr/page.php?r=62&id=300&lang=fr
前期に受けていた先生の発表で、30年代の「大衆の芸術」=映画批評とモデルニテとの関係を問うもの。具体的には、『雨に唄えば』の映画と演劇を比較するセリフを導入部分に、アドルノ、クラカウアー、パノフスキーベンヤミンの4人による映画への言及が比較検討され、そこから導き出される三つの対立と摩擦を検証するというもの。文化的な多様性の画一化として映画を批判するアドルノに対し、クラカウアーとパノフスキーとの両義的な態度*1、最後にベンヤミンとの比較という流れ、つねにアドルノがネガティブな態度を代表している点、さらに、「美学的」観点への言及はあってもショックなどの問題が指摘されることが少なかったように思うのは、おそらく発表者の関心がつねに文化産業としての映画にあったからだろうか。パノフスキーの言及としては、映画を資本主義システムとともに文明化civilisationの中心に据え、他方で、映画の美学的経験を「眼の可動性」と称し、また劇場の登場人物と映画のそれとの比較などが挙げられていた。質疑応答でも、美術史家パノフスキーとそれ以外の三人の立場の違いが指摘されていたものの、逆にそれを利用した考察であればおもしろいかもしれない*2。当時の映画文化に資本主義イデオロギー批判の先を見据えた発表であったようだが、最後はすこし曖昧なままに終わる。

何より、アドルノパノフスキーの比較の際に提示された、ミッキーのデビュー作品の『蒸気船ウィリー号』が興味を惹く。ポップでありながら暴力的な事例として指摘されるのみならず、文化産業批判の要素がすべて込められており、さらには、あまりにも柔軟なキャラクターの運動が、アングル設定やアニメーションの運動そのものとも連動するのに食い入ってしまう。しかしこのネズミ、やりたい放題だと思う。