フランス写真協会へ行く。BayardやBisson兄弟らが1854年に設立した協会、現在は国立図書館の隣にひっそりと佇んでいる。
マルテルさんに招待して頂き、論文についてのコメントを頂く。その後、Albert Londeの写真群をアーカイブから引っ張り出してもらい、直接触れることができた。19世紀末頃と思われるおよそ300枚のほとんどが、紙写真であり、丁寧に半紙に挟まれているそれらを、手袋をつけて引っ張り出す。なによりも、そのサイズの小ささと支持体の薄さに驚いた。5.5×8のサイズが多く、紙はレシートほどの薄さで、セピアのように黄色に染まり、そのほとんどが反り返っている。紙写真そのものがトルボットの時代からの実践であるとしても、あまりにも頼りない耐久性とその厳重な保管に接して、そもそもこのような紙写真がなぜここまで必要とされたのか、という疑問に襲われる。絵葉書なども残されていたところをみれば、その複製性が必要とされたことは明らかだが、紙にした後の使用法は限られているようにも思えてならない。
アルバム化された写真も3ページほどあった。やはり小さいサイズの写真が、格子状に16枚、両面ぎっしりと手作業で張られる。これらのアルバム写真は、現在のような厚みを備えていた。几帳面ではあるものの、被写体やその順序に統一性はほとんど感じられない。論文でも指摘されるが、ここでもロンドの写真の被写体は、風景、人々の集合写真(とくに採石現場が多かったのは、おそらくアマチュア協会のエクスカーションの最中であると思われる)、また火花や夜間撮影(これはDenis Bernardが指摘していた、照明撮影の試験段階か)、軍隊の集合写真、見世物の衣装をつけて空を舞う軽業師たち、単体の彫刻やそれらが展示された部屋(リシェとの共同作業?)など、多岐に及ぶ。初期の円形連続写真も残されており、馬の歩く様子が撮影されていたものの、あまりにも小さくかなり見づらいものであった。
最後に、2,3枚ほど残されていた彫刻写真は、正面もしくはやや斜めからの角度、ほとんど彫刻とおなじ高さの視点設定で撮影されている。光は均等にあたり影はほとんどなくなっていた。ベルグスタインか誰かが言及していたように、手がまっすぐとこちらに伸びるような短縮法的な視点が選ばれ、また、表面の艶までがわかるような明らかに手をかけた撮影である。興味深いことに、一枚の彫刻写真の背景には屋外の光景が映り込んでしまい、黒幕が張ってあることがわかる、つまりはわざわざ彫像を屋外に引っ張り出して撮影している。化学者シュヴルールの「絶対暗黒」かどうか判らないが、ロンドが大理石の「白い」彫刻像に対して、被写体に「白い」服を着せたマレーとおなじ方法をとっていたことがわかる一枚。