マスコミが提示する記号とそれが指定する現実とのズレ、言わばシニフィアンシニフィエのズレが、作品に顕在化するのでは。


例えば、ピカビアの作品に印象深く現れる肖像写真とサインを見てみたい。一方は、カルト・ド・ヴィジットの出現が先取っていたように、自己を保証、所有・流通させるものであった。また当時の(マス)カルチャーの出現においても、それは同定化を確固たるものとして機能していたように、自己同一性を保証するはずのものである。また、同じくサインも、古くから西洋では、自己同一性を保証するものとして機能してきたものである。この観点から見れば、本作品に現れている記号は両者ともに同じ内容を参照すべき記号であり、つまりシニフィエシニフィアンの関係が二重化されているのである。しかし、デュシャンの写真が異なる角度からの二枚組であることや、ピカビアの写真が繰り返し利用されていること、妻の写真の奇妙の切り抜き方、そして何よりも、背景や身体をも切り抜く事で喪失した顔写真は、どこかその参照点もあやふやなままにキャンバス上を浮遊しているのである。


つまり、これらはそれぞれピカビア=作者自身を参照する両方向の矢印を有する。写真が言語を、言語が写真を同定する。こうした関係の逆流や転倒が、現実と記号、そして記号間の参照関係をなし崩すのである。そして、これがメディア上に漂う作者像の記号だと考えてみれば、それはメディア自体を参照させるようなその働きを併せ持って、誕生時のメディア空間における現実と虚構の関係をもなし崩しにする関係といえるのではないだろうか。クラウスの言う効果とは異なる方向?