2007-01-01から1年間の記事一覧

大阪は九条まで、映画を見にいった。 『パラダイス/ナウ』 http://www.uplink.co.jp/paradisenow/ イスラエルに対する自爆テロを決行するパレスチナ人の48時間。言われるまで気づかなかったけど、地獄の黙示録をもじったタイトル。映画の構成、登場人物、リ…

発表終わり。19世紀の挿絵だけで、まずは一山作ること。 ボードレールやベンヤミンなどの言説のみならず、技法なんかも押さえていくこと。挿絵に付随するテクストも読解していく。パノラマの戦争画など。写真に関しては、フルッサーの精読、ミッチェルや引き…

[book] burden of representation John Tagg 部分試訳(続き) ベンヤミンが画像の「礼拝的」価値と呼んだものは、写真が人の興味を惹かないほどに共通のものとなったときには、事実上、根絶された。それはすなわち、写真が、何の剰余的価値residual valueに関…

[book] burden of representation John Tagg 部分試訳 1、A Democracy of the image前節:カルト・ド・ビジットによる肖像写真の商品化 ナダール;顧客との深いつながり ←パトロン的関係 ディズベリ;個人的関係の消失 ←資本主義的関係Ⅳ しかしながら、市場…

[book] burden of representation John Tagg あらゆる写真が、現実の写しなどではなく、特定の文化的・社会的・歴史的産物なのであり、なんらかの歪曲を被っているという立場。インデックス的性質もまた、技術的・文化的・歴史的過程が作りだしたものであり…

写真史家が前提とすること→写真の迫真性 それはつまり、真に迫るということであり、映り撮られた対象そのままの真であるということではない。出来事の証明として機能するように見せかけて、その実、雑誌というコンテクストに載った写真は、そのなかで偽装的…

写真の哲学のために ヴィレム・フルッサー

箇条書きで失敬。写真を情報化の第三段階として捉える視点。 伝統的画像→テクスト→テクノ画像 ここでは、画像を補うテクストを補うテクノ画像。 (記事が挿絵を説明していたのに代わり、写真が記事を図解するという転倒) テクストが画像を説明するのでなく…

現在のフランスの写真研究者 特に、雑誌写真、フォトジャーナリズム関係 このシンポジウムから →http://www.lhivic.org/info/recherches/trame シンポジウムの様子 →http://www.sfp.asso.fr/vitevu/index.php/2006/01/11/27-compte-rendu-journee-etudes-pra…

ダラダラ呼んでたヒュイッセン、After the Great Devide、序章と1−1。 序章 19世紀以降のモダニティの文化は、良くも悪くも、高級/大衆文化の不安定な関係性によって、悉くその二分法によって、特徴付けられてきたといえる。芸術においては、形を変えな…

今月は何かとダラダラしてしまった。いかん。

"Against Plurarism" - Hal Foster

前日まで、論文要旨のつもりが訳文になってしまった。しかも適当。 ざっとまとめる。フォスターは、1980年代前半の芸術(と建築)における多元主義が生まれた諸条件を分析して、そのイデオロギー性を激しく批判している。 フォスターが80年代までの前史をまと…

そうした一戦略―それ自体に抗うクリシェ―は、モダン・アートにおける特定の問題を指摘している。周知のとおり、モダン・アートはのスタイルは、商業的に搾取されている。そうした搾取は今や、多くの現代アートにとっての口実になっている。現代アートは、古…

後ろの前衛? 今日、アヴァンギャルドは死んだと聞かれる。現代アートは、アカデミーとアヴァンギャルドとの対立よりも、公的な形に仲介された特権的な形の結託によって支配されている。さらに芸術は、流行を支配するような周期的なメカニズムによって導かれ…

フォスターによれば、芸術における多元主義は、現状維持を脅かすことのない、寛容性を示している。多元主義にはそれ自体の原理がなく、そこでは、古い価値が蘇る。独自性や先見性、天才、傑作といったものを、写真を用いた手法やコラージュ、レディメイドな…

フォスター

多元主義というひとつのイデオロギー。 この多元主義自体が、ひとつの立場であり、問題含みであること、 つまり、それが変化させられるよう条件付けられたものであることを明確にしたい。 元来、多元主義とは50、60年代から批判されていたものであもあったが…

ベンヤミン「ドイツ悲劇の根源」 芸術作品 その批評は、ジャンルや形式などの外的な尺度による比較において形成されるべきでなく、内在的に、つまり、効果を犠牲にして内容を外に駆り出す、作品の形式の表現力の発展のうちに形作られる。 根源 こうした規則…

ベンヤミン「生産者としての作家」 文学が時代の生産関係のなかでどうなっているのか、ということを問う。文学の傾向と質=形式と内容における弁証法的な関係、そこで、ベンヤミンは作品生産における作家の技術に着目する。 具体例 ロシア文学―セルゲイ・ト…

前回の続き。 前言撤回。この論文において、芸術/大衆文化という二項対立を単純に取り出すことはできない。なぜならそれは、ブクローの議論があくまでイデオロギー論争に徹しているからである。イデオロギーの厄介さを忘れてた。歴史化には、イデオロギーが…

「寓意的手段:現代アートにおけるアプロプリエーションとモンタージュ」の論文紹介。表題にあるとおり、この論文でブクローは、20世紀美術における、アプロプリエーションとモンタージュという手法を用いた作品を選び出し、それらを通史的に見直すと同時に…

前回の発表で、断片化された写真が記号化され、象徴化されるということを僕は連発したのだけれど、この「象徴」という語が強調されればされるほどに、ブクローの言う、モンタージュのアレゴリー的な作用とは相反してしまう。いかにこれらが両立するのか? ア…

20世紀初頭のメディア的文脈について、何か良い参考文献がないものか。とくにフランス。探し方に問題があるのかな…

29日から、この三日間、佐藤先生の集中。 展示・コレクションの契機から出発して、アプロプリエーションにブリコラージュ、考現学から、近代、モダニズムを判りやすく説明して頂き、その間にはジャズ史やパンクにモッズまでもが挟まっていた。 ダダに関して…

ツァラ→サインにサイン。また写真を用いた作品にも次のようなものが見られる。@題名から察するに自画象であると考えられるが、ここにはそれぞれデッサンにDessin、写真にPHOTOという書き込みがなされている。こうした彼の自己指示的な性質が何を意味するの…

マスコミが提示する記号とそれが指定する現実とのズレ、言わばシニフィアンとシニフィエのズレが、作品に顕在化するのでは。 例えば、ピカビアの作品に印象深く現れる肖像写真とサインを見てみたい。一方は、カルト・ド・ヴィジットの出現が先取っていたよう…